数の一般化
数学の大きな特異性の一つは、
私たちが最初に出発点とした整数に関連して考案されてきた、一連の関連概念がある。これらの概念は、数の拡張あるいは一般化と呼ぶことができる。まず第一に、分数の概念がある。現存する最古の算術書は、アーメスという名のエジプトの僧侶によって、紀元前1700年から1100年の間に書かれたものである。
そして、それはおそらく、はるかに古い著作の写しであろう。その内容は主に分数の性質を扱っている。したがって、この概念は数学の歴史の極めて早い段階で発展したようである。実際、この主題は非常に自明なものである。畑を3等分し、そのうちの2つを取るという作業は、頻繁に生じていたはずの操作の一種に違いない。それゆえ、遠い文明の人々が3分の2という概念に精通していたとしても、何ら驚くにはあたらないのである。そして
それに関連する概念を伴う。したがって、数の最初の一般化として、我々は分数の概念を位置づける。ギリシャ人はこの主題をむしろ比の形式で捉えていたため、ギリシャ人であれば当然、長さ2フィートの線分は長さ3フィートの線分に対して2対3の比を持つと言うだろう。我々の代数的な記法の影響下では、一方の線分は他方の3分の2の長さであると表現することが多く、3分の2を数値的な乗数として考えることになる。
比の理論に関連して、あるいは
分数に関して、ギリシャ人は偉大な発見を成し遂げた。それは、数学的のみならず、膨大な哲学的思索のきっかけともなったものである。彼らは「不 commensurable(通約不可能)」な比の存在を見出したのである。実際、彼らは幾何学的な探究の過程で、ある任意の長さの線分から出発したとき、その元の長さとの比が、いかなる整数の対の比でも表すことのできない他の線分が必ず存在することを証明した。言い換えれば、元の長さの正確な分数倍では表せない長さが存在する、ということを証明したのである。
例えば、正方形の対角線は、その正方形の一辺の長さのいかなる分数倍としても表すことができません。現代の記法では、対角線の長さは一辺の長さの 倍となります。しかし、 を正確に表す分数は存在しません。私たちは近似することができます
にいくらでも近づけることはできるが、その値に正確に到達することは決してない。例えば、 は よりわずかに小さく、 は より大きい。したがって、 は と の間にあることになる。しかし、 を近似する最も体系的な方法は、それぞれが前よりも大きくなるような小数(分数)の列を得ることであるが、これは通常の平方根の計算方法によるものである。すなわち、その数列は 、、、、……と続く。
このような比は、ギリシア人によって「不 commensurable(通約不可能)」と呼ばれている。これらはギリシア時代から今日に至るまで、多くの哲学的議論を呼び起こしてきたものであり、それらに関連する難問がようやく解明されたのはごく最近のことである。
私たちは、測り知れない比を置くことにする
分数を含め、整数、分数、および不尽数(無理数)の全体を一つの数のクラスとして考え、これを「実数」と呼ぶことにしよう。我々は常に実数を、零から始まり上方に向かって、進むにつれて無限に大きくなっていくような、大きさの順序に従って並べられたものとして考える。実数は便宜上、
直線上の点で表される。を端点とし、の方向に無限に伸びる任意の直線を考える。この直線上に適当な点をとり、を単位長さとする。そして、、、……と、と等しい長さを順次とっていく。すると、点は数を、点は数を、点は数を、というように表すことになる。実際、任意の点が表す数は、単位長さを基準とした、からの距離の尺度である。との間の点は真分数およびより小さい無理数を表し、の中点はを、の中点はを、の中点はを、というように表す。このようにして、上のすべての点は何らかの実数を一つ表し、すべての実数は上の何らかの点を一つ表すことになる。
に沿った一連の(あるいは一列の)点、
を起点とし、からへの方向に規則的に移動することで、実数を昇順に並べたものとして表す。
サイズで、ゼロから始まり、進むにつれて絶えず増加していく。
これらすべては十分に単純なことのように思えるが、それでも
この段階において、これらの明白な事実に立ち入ることで得られる興味深い考え方がいくつかある。整数のみを表す点の列、すなわち点 、、、、 などについて考えてみよう。ここには最初の点 があり、明確な次の点 が存在する。そして や のような各点には、先行するものがない を除いて、それぞれ一つずつ明確な直前の点と直後の点が存在する。また、この列は終わりなく無限に続く。このような順序は、整数の順序型と呼ばれる。その本質は、列の最初の数を除いて、両側に隣接する点を持つことにある。次に、無理数に対応する点を除外して、整数と分数を合わせて考えてみよう。今得られる順序の型はまったく異なるものとなる。最初の項 は存在するが、どの項にも直前の項や直後の項は存在しない。これは容易に理解できる。なぜなら、任意の二つの分数の間には、常にその中間の値を持つ別の分数を見つけることができるからである。これを行う非常に単純な方法は、二つの分数を足し合わせ、その結果を二等分することである。例えば、
との間には、分数、すなわちが存在し、そしてとの間には
分数 、すなわち が存在し、以下同様に無限に続く。この性質ゆえに、この級数は「コンパクト」であると言われる。この級数には終点が存在せず、直線 上を進むにつれて限りなく増大していく。一見すると、このように分数から得られる級数の型は、整数、分数、無理数をすべて含めたもの、すなわち直線 上のすべての点から得られるものと同じであるように思われるかもしれない。これまで述べてきた分数の級数に関するすべてのことは、実数全体の級数にも等しく当てはまる。しかし、ここから述べる重要な違いが存在する。分数の級数には無理数が欠けているため、ある種のクラスに終点が存在しないことになる。例えば、無理数 を考えてみよう。実数の級数において、これは二乗が 未満であるすべての数と、二乗が より大きいすべての数との間に位置している。しかし、無理数を考慮に入れず分数の級数のみに限定すると、 を持ち出すことができないため、この級数を二つの部分に分ける、すなわち一方側のすべての要素の二乗は 未満であり、他方側のすべての要素の二乗は より大きいという性質を持つような分数は存在しない。したがって、分数の級数においては
があるべき場所に、準ギャップが存在する。分数系列におけるこうした準ギャップの存在は些細なことのように思えるかもしれない。しかし、これを読んでいる数学者であれば誰しも、極限が存在し得ないということが
あるいは極大値をある種の数に限定し、それが数の系列全体に及ばないようにすることは、決して小さな弊害ではない。この困難を回避するために、隙間のない完全な系列を得るべく、無理数に頼るという手段がとられるのである。
この二つの級数には、さらに根本的な違いがもう一つある。我々は、整数のような級数において分数を並べ替えることができる。つまり、最初の項を定め、各項に直後の項(後続項)があり、(最初の項を除いて)直前の項(先行項)があるように並べ替えるのである。これがどのようにして可能かを示そう。分数と整数の級数に含まれるすべての項を、分数形式で書き表すことにする。すなわち、 は 、 は とし、同様に を除くすべての整数についても同様に行う。また、当面の間、値は等しいが既約分数になっていない分数は、別個のものとして扱うこととする。したがって、例えば、追って通知があるまでは、、、、 などはすべて別個のものとみなす。次に、各項の分子と分母を足し合わせることで、分数をいくつかのクラスに分類する。簡潔にするため、この分数の分子と分母の和をその「指標(index)」と呼ぶことにしよう。したがって、 は
の指数、そしての指数、さらにの指数。各クラスに含まれる分数を、ある特定の指数を持つすべての分数とし、したがってこれをクラス指数と呼ぶことにする。さて、これらのクラスをその指数の大きさの順に並べる。第1クラスの指数はであり、その唯一の要素はである。第2クラスの指数はであり、その要素はとである。第3クラスの指数はであり、その要素は、、である。第4クラスの指数はであり、その要素は、、、である。以下同様である。どのクラスに属する要素の数(既約分数でないものも含む)は、その指数より1小さいことは容易に理解できる。また、どのクラスの要素も、最初の要素を分子がである分数とし、2番目の要素を分子がである分数とし、以下同様にまで(ここでは指数である)とすることで、順序立てて並べることができる。したがって、指数のクラスについて、要素は以下の順序で現れる。
実際、最初の4つのクラスの項は、この順序で言及されてきた。したがって、分数の集合全体が、整数のような順序で並べられたことになる。それは次のように続く。
など。
これで、同じ値を持つ分数の繰り返しをすべて、最初に出現した後のものはすべて削除することで取り除くことができる。上に書き出した最初のいくつかの項のうち、上で角括弧で囲まれた は、既約分数ではない唯一の分数である。これは以前に として出現している。したがって、これは削除されなければならない。しかし、この数列は依然として同じ性質を保っている。すなわち、(a) 最初の項が存在すること、(b) 各項に隣接する項が存在すること、(c) 数列が終わりなく続くこと、である。
~することは不可能であると証明できる。
実数の全系列をこのように配列してみよう。この興味深い事実は、存命中のドイツの数学者ゲオルク・カントールによって発見されたものであり、数学的観念の哲学において極めて重要な意味を持つ。我々は今、まさに連続性と無限の意味をめぐる偉大な諸問題の端緒に触れているのである。
数のもう一つの拡張は、
「操作」あるいは「段階」などと様々に呼ばれる概念の導入。これらの名称は、それぞれ異なる視点から見ればいずれも適切なものである。まずは特定の事例から始めることにしよう。以下を考察せよ。
という命題がある。 に を加えると になる。ここで、 を加えるという演算を考え、これを と表記することにする。同様に である。 を引くという演算を考え、これを と表記することにする。このように、実数そのものを考える代わりに、実数を加えたり引いたりする演算を考えるのである。すなわち の代わりに と 、つまり を加える演算と を引く演算を考える。すると、これらの演算同士を加えることができる。もちろん、これは数を加える場合とは異なる意味での加法である。二つの演算の和とは、それら二つの演算を連続して適用したのと同じ結果をもたらす単一の演算のことである。では、二つの演算はどのような順序で適用されるべきか。答えは、順序はどちらでもよいということである。なぜなら、例えば であり、したがって と というステップの加法は可換だからである。
数学者には、意味を追い求める者にとっては不可解だが、実際には極めて便利な習慣がある。それは、同じ記号を、関連してはいるが異なる意味で用いるというものである。彼らにとって記号に求められる唯一の必須条件は、どのような意味の変種があり得ようとも、それを用いるための形式的法則が常に同一であることである。
この習慣に従い、数の加法と同様に、演算の加法も で表すことにする。したがって、 と書くことができる。ここで、左辺の中央にある は、演算 と の加法を表している。しかし、さらに言えば、意味を直接的に辿るような稀な場合を除いて、我々の記法においてそれほど厳密である必要はない。そのため、行頭の や括弧は常に省略し、二つの 記号を並べて書くことは決してしない。こうして先ほどの等式は となる。これを我々は、単純な数の加法として、あるいは前述の書き方で完全に表現されたより精緻な演算の加法として、あるいは最後に、数 に演算 を適用して数 を得るという結果の表現として解釈する。可能な解釈はどれも常に正しい。しかし、ある条件下において常に可能な唯一の解釈は、演算による解釈である。他の解釈は、しばしば無意味な結果をもたらす。
これは直ちに一つの問いへとつながる。それは、おそらく読者の心の中でしきりに湧き上がっていたに違いない問いである。
読者の心:これほどまでに精緻に論じることに何の意味があるのか? ここで我々の友人である実務家が、きっと割って入ってきて、こうした脳内のくだらない蜘蛛の巣をすべて一掃すべきだと主張するだろう。その答えは、数学者が追い求めているものは「一般性」だということである。これは一種の
変数や形式という概念に比肩しうる価値を持つ考え方であり、その関心の及ぶ範囲においては
数学的手続きを律する上でのその重要性である。定理、証明、あるいは解釈の一般性に対するいかなる制限も、数学的本能にとっては忌まわしいものである。変数、形式、そして一般性というこれら三つの概念は、数学という学問全体を統べる一種の数学的三位一体を構成している。それらはすべて、数学という学問の抽象的な性質という、同一の根から生じているのである。
この「演算」という概念の導入によって、いかにして一般性が得られるかを見てみよう。方程式 をとると、その解は である。ここでは、我々の用いる記号を単なる数として解釈することができ、「演算」に頼る必要は全くない。しかし、 が単なる数であるならば、方程式 は無意味なものとなってしまう。なぜなら、 とは「1つのものから3つのものを取り去ったときに残るものの数」でなければならないが、そのような手順は不可能だからである。ここで、代数的形式という我々の概念が登場する。それ自体、別の側面から見た一般化にすぎない。したがって、我々は次のように考える。
と同じ形式の一般方程式は、 であり、その解は である。ここで我々の困難は深刻なものとなる。なぜなら、この形式は が より大きい場合にしか数値的な解釈ができず、 と がいかなる定数であってもよいとは無条件に言えないからである。言い換えれば、我々は「定数」 と の可変性に制限を導入してしまったのであり、その制限をあらゆる推論の過程で鎖のように引きずらなければならない。このような条件下では、長期にわたる数学的探究は不可能であろう。あらゆる方程式は、最終的には制限の山に埋もれてしまうはずだ。しかし、ここで我々が記号を「演算」として解釈すれば、あらゆる制限は魔法のように消え去る。方程式 は を与え、方程式 は を与え、方程式 は を与える。これは場合に応じて加法あるいは減法の演算となる。 が加法の演算を表すのか減法の演算を表すのかを決定する必要はまったくない。なぜなら、いずれの場合であっても記号を用いた手順の規則は同じだからである。
本書の計画において、初等代数学の詳細な章を執筆することは意図していない。我々の目的は、この学問の形成を導く根本的な考え方を明らかにすることに尽きる。したがって、我々は「正の数と負の数」がどのように扱われるかという詳細な規則については、これ以上説明しない。
乗算やその他の方法で組み合わせられる。正の数と負の数が演算であることは、すでに上で説明した。これらは「ステップ(歩み)」とも呼ばれてきた。したがって、 とは から へと進むステップであり、 とは から へと戻るステップである。本章の前半で説明したように、直線 が分割され、その上の点が数を表していると考える。そのとき、
pg86は、からへの、あるいはからへの、さもなくば(分割をに沿って逆向きにとるならば)からへの、あるいはからへの歩み、等々である。同様には、からへの、あるいはからへの、あるいはからへの、あるいはからへの歩みである。
からの歩みによって到達する点を、その歩みを代表するものと見なすことができる。したがって、はを、はを、はを、はを、というようにそれぞれ代表する。注目すべきは、以前の「符号なし」の実数のみを扱っていたときには、の片側、すなわちに沿った点のみが数を代表していたのに対し、歩みを導入した今では、直線の両側に広がるすべての点が歩みを代表しているということである。これは、正の数と負の数によって導入されたより高い一般性の図解的表現であり、すなわち
操作や手順。これらの「符号付き」数は、ベクトル(ラテン語のveho、私は運ぶ、に由来する)と呼ばれるものの特殊なケースでもある。
(引く、あるいは運ぶ)。というのも、我々は粒子が から へ、あるいは から へと運ばれるものと考えることができるからである。
数ページ前、正の数や負の数の導入に伴う複雑さに対して、実務家は異議を唱えるだろうと示唆したが、あれはあの素晴らしい人物に対する中傷であった。実のところ、我々は彼の最大の功績の一つを目の当たりにしているのである。真実を告白しなければならないなら、実際に「+」と「-」の記号を最初に使用したのは、他ならぬその実務家自身であった。その起源は定かではないが、ドイツの倉庫で商品の木箱にチョークで記された印に由来する可能性が最も高い。それは、ある基準重量に対する過不足を示すためのものであった。それらに関する最も古い記録は、1489年にライプツィヒで出版された書物に見られる。数学においてそれらが最初に使用されたのは、ドイツの数学者シュティフェルによる著書の中でのことのようである。
1544年にニュルンベルクで出版された。しかし、ドイツ人がとりわけ実用的な国民と見なされるようになったのは、ごく最近のことである。海はイギリス人、陸はフランス人、そして雲はドイツ人が支配するという古い警句がある。ドイツ人が「+」と「-」を雲の中から持ち帰ってきたのは、まさにその通りであった。
これらのシンボルが生み出した概念は、人類の幸福にとってあまりにも重要であり、海や陸から生まれたものとは考えがたい。
正の数と負の数の応用の可能性は、極めて明白である。ある方向への長さが正の数で表されるならば、その反対方向の長さは負の数で表される。ある方向への速度が正であれば、反対方向の速度は負である。時計の針と逆の方向(反時計回り)への文字盤周りの回転が正であれば、時計回りの回転は負である。銀行の預金残高が正であれば、当座貸越は負である。ガラス電気(正電気)が正であれば、樹脂電気(負電気)は負である。実際、この後者の例においては、「正電気」および「負電気」という用語は、単なる名称として考えられたにもかかわらず、他の用語を事実上駆逐してしまった。このような例は無限に挙げることができる。正の数と負の数という概念は、数学的な機微の中でも、実用において最も成功したものである。