後者である。大天使の数は、彼らが「物」であるというただそれだけの理由で数えることができる。ラファエル、ガブリエル、ミカエルという名前があり、それら固有の名前が固有の存在を表していると一度知ってしまえば、我々はそれ以上疑う余地もなく、彼らが三体存在することを知るのである。天使の存在の本質に関する世の中のあらゆる詭弁も、前提を認める限りにおいて、この事実を覆すことはできない。
しかし、それらが空間とどのような関係にあるのかについては、依然として全くの暗中模索の状態にある。それらはそもそも空間の中に存在しているのだろうか。おそらく、それらが「ここ」にあるとか、「あそこ」にあるとか、「どこか」にあるとか、「いたるところ」にあると言うこと自体、等しく無意味なのかもしれない。それらの存在は、単に空間上の場所とは何の関係もない可能性がある。したがって、数はあらゆるものに適用されなければならない一方で、空間は必ずしもそうである必要はないのである。
物の局所性という知覚は、我々の感覚の多く、あるいはすべてに付随しているか、あるいはそれらに含まれているように思われる。それは、多くの感覚に付随するという意味において、いかなる特定の感覚からも独立している。しかし、それは我々が感覚によって把握する事物の特別な特性である。物と物との相互の位置関係として我々が意味するものの直接的な把握は、音、色、味、匂いの把握がそうであるのと同様に、それ自体独特(sui generis)なものである。したがって一見したところ、数学は、その範囲内に幾何学を含む限りにおいて、次のような意味で抽象的ではないように思われる。
Iにおいて、それにどのような抽象性が帰せられているか。
しかし、これは誤りである。真実はといえば、
空間の「空間らしさ」というものが、我々の幾何学的な推論の中に一切入り込まないということである。それは、数学者個々人に固有で特殊な仕方で、彼らの幾何学的な直観の中には入り込む。しかし、推論の中に入り込むのは、空間内にある事物、あるいは空間を構成する事物の、単なる特定の性質にすぎず、それらの性質はIで定義された意味において完全に抽象的である。すなわち、これらの性質は、いかなる特殊な空間把握や空間直観、あるいは空間感覚をも伴わない。それらは、数の数学的性質とまったく同じ基盤の上に立っている。したがって、幾何学の研究にとって極めて重要な補助手段である空間直観は、論理的には無関係である。それは、適切に記述された前提の中にも、推論のいかなる段階にも入り込まない。それは、我々の思考を刺激するために不可欠な、例としての実際的な重要性を持っているにすぎない。数に関する我々の思考を刺激するためにも、同様に例が必要である。我々が「2」や「3」について考えるとき、列になった線や、山積みになった球、あるいは特定の事物の他の何らかの物理的な集合を思い浮かべる。幾何学の特殊性は、我々の(思考に)現れる一つの特定の例の固定性と、圧倒的な重要性にある。