したがって、私たちが外部の事物の間のつながりを、特定の感覚に依存せず、さらには特定の個人のあらゆる感覚にも依存しないような方法で記述したいと考えるのは、容易に理解できることである。外部の事物の世界における出来事の推移が満たす法則は、可能であれば、中立的かつ普遍的なやり方で記述されるべきであり、それは盲目の人にとっても耳の聞こえない人にとっても同じであり、また私たちの理解を超えた能力を持つ存在にとっても、通常の人間にとっても同じであるべきなのだ。
しかし、私たちが当面の
感覚のうち、その明晰さ、明確さ、そして普遍性ゆえに最も有用な部分――残されたもののうちの大部分――は、事物の抽象的な形式的性質についての一般的な観念、すなわち前述した抽象的な数学的観念によって構成されている。こうして、人類は段階を追って、その過程の真の意味を自覚せぬまま、宇宙の諸性質を数学的に記述しようと探求するに至ったのである。なぜなら、特定の個人や特定の種類の感覚への言及から解放された、出来事の推移に関する一般的な観念を形成するには、この方法しかないからである。例えば、夕食の席で「私の視覚、あなたの触覚、そして彼の味覚や嗅覚の根底にあったものは何か」と問われたとしよう。その答えは「リンゴ」である。しかし、科学は最終的な分析において、リンゴを分子の位置と運動という言葉で記述しようとする。それは私やあなたや彼を無視し、視覚や触覚や味覚や嗅覚をも無視する記述である。このように、数学的観念はその抽象性ゆえに、出来事の推移を科学的に記述するためにまさに求められているものを提供してくれるのである。
この点は、往々にして誤解されてきた。
狭義に捉えられすぎること。ピタゴラスは、数こそが万物の根源であると宣言したとき、その一端を垣間見ていた。現代において、その信念は
万物の究極的な説明がニュートン力学に見出されるとされたことは、あらゆる科学は完成に近づくにつれて数学的になるという真理の予兆であった。
その思想において。